…などと供述しており

タナカのようなもの

【よみもの】渇望と雄ねずみ

 渇望、と彼女は言った。冬のことだった。部屋へ迷い込んだ雄ねずみと語り合ううち初めてあの感情にこの単語を充てたとき、彼女はわれながら言い射たものだと思った。べつに試行錯誤の末のことではなくて、たんに彼女がそれまでこの感情について、くちに出して、ならびに他人に説明をすることがなく、あるいはじぶんのためにでも文章にしたことがなかったからだった。彼女は死にたかった。ずっと前から、たしか物心のついたころから。それを「渇望していた」らしかった。
 そのことばをくちに出してから…というより、雄ねずみと暮らしはじめてから、彼女は自分のもっとも内側にあるこの感情について、「言語化」を幾度も試みることになった。それは日課の入浴の最中だったり、くらい部屋で薄く音楽を流す夕方だったり、小雨の降る緑鮮やかな遊歩道の散歩中だったりした。浴室や部屋や遊歩道には雄ねずみがいたりいなかったりした。
 彼女は言語でしか思考ができなかった。すなわち、ほとんど言語でしか理解ができないと言ってよかった。他人の感覚に感覚でわかった気になることはできても、自分の感覚に感覚でわかった気になることはできなかった。当然他のだれよりも彼女は彼女のその感情についてくわしく理解していたけれども、それが全体のうちどのくらいを理解できているのかはわからなかった。より正確には、ほとんど正確な理解はできていないのだろうという感触をずっと抱えていた。ただ、ただ諦めによって、それは「未処理」とラベルのついたひきだしの奥のほうへしまいこまれ、その上にべつの未処理が積まれていた。けれどもあの日、それは雄ねずみの磁力に引かれてひきだしから跳ね出てきた。それ以来それが「未処理」ひきだしの底の方へ沈んでいくことはもちろんなく、雄ねずみにぴったりと貼りついて毎夜彼女の視界へ映りこむようになった。
 彼女は雄ねずみと同様に…否、雄ねずみには遠く及ばなかったけれども、すくなくともたくさんの人々よりは…読書が好きだった。たんなるエンターテイメントとして消費することもあったけれども、主にはその「未処理」を処理するのに、ほかの方法を知らなかったからだった。(彼女は「未処理」に向き合うこと自体も好きだった。)先人たちの紡ぐものに自分のなにかを重ね、彼らのことばの断片をじぶんのなにかを言い表しうる可能性をもったものとして、丁寧にファイリングした。しかし、ファイルがいっぱいになり数冊になりうずたかく積まれては崩れ見失う日が何度来ても、まさしくあれをあれとして表現するものには出会うことのないまま、そしてじぶんでそれを紡ぐことも諦めたまま、彼女は困惑して生き続けていた。よく晴れた夕暮れの迷子と同じ顔をして、十字路の真ん中につったってファイルの山の番をしていることしかできないのだった。その点雄ねずみは、きちんと彼自身をわかり、きちんとした決断を経て、きちんとそこへ座り込んでいるように見えた。彼女はきちんとしたかった。

 そのあと季節は一巡し、2度目の春が来るすこし前にデヴィッド・ボウイが最新作を遺してから死んで、世界とやらがふかくつよい悲しみに覆われた。空には黒い星が燦然とかがやき、雄ねずみもその光に巻き込まれて溺れた。彼女は特にデヴィッド・ボウイに親しんで生きてきたわけではなかったけれど、ただ彼が「ロックスター」であること、世界とやらに対してどんな役割を自ら担いあるいは担わされ、その早すぎる死が世界とやらにもたらす悲しみの深さだけを知っていて、だからきちんと敬意を持って彼の死を思った。
 ある日、雄ねずみがひとつのエッセイを彼女に勧めた。雄ねずみ気に入りの「ロックスター」であるところのR氏が、デヴィッド・ボウイを追悼して書いた記事だった。彼女は泣いた。それを読んで彼女は、彼がいかに音楽を愛し、愛され、そのために生き急がなければならなかったのかをあらたに知ったけれども、彼女が泣いたのはデヴィッド・ボウイを思ってのことではなかった。

 彼女がR氏の音楽に出会ったのは雄ねずみに出会った冬で、それはもちろん雄ねずみの勧めによってもたらされたものだった。彼女はその時、彼に…彼というのは、雄ねずみのことでもR氏のことでもある…彼に出会うのが遅くてほんとうによかったと心底安堵した。遅ればせながらに触れた「彼」の思想はあまりに彼女にとって、親和性が高すぎた。彼女が「彼」に馴染んでしまうことはまったく難しいことではなく、むしろたばこの煙がどうしたって部屋の空気に馴染むのとまったく同じように、つまり「必然」を纏っていた。彼女は宙に消えたくはなかったので、かつてからR氏を知りながら触れずに生きていたじぶんの幸運を思った。記事のなかで彼はたしか、こう言っていた…「たった一夜の奇跡のようなステージのために、バンドを壊す」「こうしてデヴィッド・ボウイでも持ち出さねば、だれにも理解してもらえないのだ」と。

 彼女は泣いた。こんなに美しいことがあるだろうかと思って泣いたし、彼の言うことを彼女はしんじつ理解した。彼女の死に対する渇望を、これほどにきちんとことばにしてくれる人間がこの世に、つまりこの世界の、彼女が生きるおなじ時代にいることに、彼女は泣いたし、この文章が彼女を泣かせることをはっきりわかっていた雄ねずみに泣いた。泣く彼女を見ながら、雄ねずみはなにも言わずにたばこを吸った。彼女は、奇跡のように美しくなりたかったのだった。

 彼女は、彼女の命を軽んじたことなどただの一度もなかった。彼女にとって彼女の命はかんぜんに代替不可能な、言ってしまえば唯一のものらしかった。彼女は、それをもっとも美しく仕立てる方法をずっと探しながらじぶんが生きてきていたのを知っていた。そのための渇望であることも知っていた。なのになぜ今まで思い至らなかったのだろう。わたしにとってわたしの命はあまりに尊く重大で希少で、だからこそ、それを破壊することが、いちばん美しいことだとわたしはきっと幼少のころからわかっていたのだ。なのにただその一点にのみ、辿り着けずに迷子になっていたらしかった。泣きながら体の芯が澄んでいくような気がした。冷たい水を飲んだような感触が内臓を抜けた。雄ねずみはなにも言わずに泣く彼女を見ていた。たばこは今や燃え尽きようとしていた。
 尊いものは美しい。それは、理不尽によってのみ発露すると彼女は確信していた。あるいは、尊さの発露とまったくおなじ瞬間に理不尽も発生すると。いずれにせよどうしても不可分に見えるそれらを、彼女は、雄ねずみは、ずっとじぶんに与えようとしていた。死、われわれが自らひきおこしうる最大の理不尽。そのときのみずからの、奇跡のような美しさ。それをずっと求めていたことは、ああ、わかっていたはずなのに。

 彼女はずっと死にたかった。ずっと。それは、生きたくないということとはまったく関係のない話で、彼女はたのしく、いそがしく、豊かに生きてきた。色彩とりどりの5人に囲まれて思考に耽り、雄ねずみの博識の海を導かれながら泳ぎ、狭くて暗く汚くて居心地のいい自室が欠けることもなく、ここ数年、まったく幸福と言っていい暮らしをしていた。生活の横に死への渇望やあらゆることへの絶望があったって、そんなことはまったく可能なのだった。一切矛盾しないで彼女は幸福に生きてきて、ずっと死にたいと思っていた。息をしながらこの渇望が晴れたときが、<わたし>の死んだときになる、その絶望を思いながら、なんとか回避しようと試みながら、彼女は今日も講義を受け、友人に会い、おいしいものを食べた、なんの矛盾もなく。明日も講義に出て音楽を聞き、すてきな本を読む。これがとてつもなく幸福なことだと、わからない人には、わからないのだろうと思って、あるいはそれの「わかる」雄ねずみを思って、誇らしい気持ちになった。彼らのあるく日なたに、彼女は憧れを抱いたことすらなかった。

「こどもたちの笑い声や祈りのセレナーデの届かないところはないのだろうか」「そんな日陰がないのなら、わたしは影そのものになろうとした」

 彼女は雄ねずみと一緒にその場所を探し、影になろうと語り合った。彼女はとても幸福だった。雄ねずみがそうなのかは、雄ねずみ以外に知る由もなかった。

今作のポケモンは「母性のゲーム」である

こんばんは、タナカルイです。この記事は4500字ちょいあります。ポケットモンスターサンムーン、イライラしてる時に勢いでポチったのがサンだったので素直にサンをやってます。ポケモンサンムーンは4つの島から成りまして、今4つめの序盤にさしかかったところなので、そろそろいろいろ書いていこうと思います。ただわたしゲームとか詳しくないんでいろいろアレだったら「おまえアレだぞ!」って言ってください。(Twitter: @Louis_Tanaca まで。)あと、ポケモンを1作もやってない人意味わかんない可能性がすげー高い。ある程度の注釈は入れていくつもりだけど。


書いていこうっつったって、ゲームシステムがあーだゲームバランスがこーだ前作との比較がどーだ、そういうのはもうわたしよりよっぽど詳しい人がよっぽど詳しく書いてるだろうと思うので、そういうのではない視点で書いていきます。ゆえに、ストーリー的ネタバレとかかなり含んでいくと思われます。ちなみに(重要かはわからないですが)前提事項として、わたくし生粋のポケモン生まれポケモン育ちデジモン好きはだいたい仲良くなれないでおなじみのタナカルイなんですけど、FFとDQならFFなんですけど、

【GB】
・青
GBC
・金
・銀
・クリスタル
GBA
・ルビー
・エメラルド
【DS】
・ダイヤ
・ホワイト(最初のジムリーダー前に挫折)

とやってきており、そこからだとHG/SSとB/W2の2作分ブランクがあるのかな。そんなかんじの前提で、この度ニンテンドー最新作ゲームフリークポケットモンスターサンをプレイしております。

では本題、本エントリのタイトルになってる予定のコレis「ポケットモンスターサンムーンは感情のゲームである」のはなしをしていきます。他のはなしもします。所感全般なのでたぶんめちゃめちゃ長くなる。

えーと、つまり、今までのポケモン、あるいは今や「レトロゲー」と呼ばれる我々が慣れ親しんできたものって、感情の描写がどうしても薄かったんですよね。それはグラフィックが追いつかないとか、主人公に感情移入させるために余計なこと喋らせんとことか、そんなん描写するメモリあったらもう一面作るわとか、そういういろいろがあったからだと思いますけど。でも、今作はもうこれでもかと渾身の感情のゲームをお造りになられましたね。渾身すぎて、もしかして今までのポケモンもこういう風に作りたかったのでは?えっ?だとすれば今までリリースしてたポケモンちょっともう全然アレじゃない?ダメじゃない?っていうくらい渾身。

具体的に何点か挙げると、

ポケモンが倒れるときのモーションがきちんとある(しかもスキップとかできない)

・バトルの際、相手ポケモンの真後ろに常に相手トレーナーが居て、技を出す直前に指示と思われるモーションがある

・バトルに勝つと、相手トレーナーのセリフとともに悲しげな表情が描写される

・「ポケリフレ」の導入により、手持ちのポケモンを下画面(タッチスクリーン)でナデナデしたり、状態異常の手当ができる。

・それに付随して親密度的なゲージがあり、親密度が高いとバトル中に「褒められたくて急所を狙った」とか「心配をかけまいとして自力で状態異常を治した」とか「掛け声で相手の攻撃を避けた」とかが発生。あと相手を倒したあと、ドヤ顔でちらっと振り向く。

・ストーリーパート(ムービーパート的なやつ)で、主要キャラの表情がきっちり変化する。

ここらへんですかね。すごくないですか?カートリッジでここまでやるの偉くないですか?自分の相手の野生のポケモンに対する感情移入、相手トレーナーに対する感情移入めっちゃさせてくる。

ついでにカートリッジ云々の話、つまりメモリ的な話をすると、わたしにとっての最後のポケモンは先述の通りダイヤなんですけど、ダイヤからのグラフィックの進歩が著しすぎてもう笑えるレベル。カメラも定点というか、ユーザーが動かすことこそできないんですけど、カメラアングルめちゃめちゃに変わるんすよ。寄ったり引いたり煽ったり見下ろしたり。なんやこれ!RPGか!!!って。そう、少なくともダイヤまで「作業ゲー」だったポケモンはもうなくて、これはRPGです。

んで一旦はなしをズラします。戻るかはわからんけど一旦って言ってズラしますけど、かつて少なくともダイヤまで「作業ゲー」だったじゃないですか。「耐えゲー」だったじゃないですか。転んでは起き転んでは起きぶっ倒されてはコンニャロっつってぶん殴りに戻るゲームだったじゃないですか。そういうの、もう無いです。

例えばこれポケモンやったことある人あるあるだと思いますけど、「今!?急じゃない!?今!?!!?」みたいなタイミングで「ライバル」が襲いかかってきたりするじゃないですか。いやいや手持ちポケモン結構イッてるって。HPもPPも状態異常も、なんなら瀕死もおるって。今?今なん?やめて?今のわたしに勝ってお前楽しい????はい負けたーーですよね負けますよねーーーウワーーまあまあ遠いポケセン飛ばされたわーーーっつって、もう一回そこのちょっと手前まで行って、このあとあいつが来るから、問答無用で来るからって道具使い倒して準備万端にしてはいほら来た知ってたかかってこいっつって勝てる、みたいなのあるあるだと思うんですけど。こういうの無い。そもそもライバルの性格が穏やか。そんなんじゃ東京ではカモにされるから、絶対歌舞伎町とか行くなよお前くらい穏やか。んで「タナカルイ〜バトルしよ〜その前に回復してあげる〜」っつって回復してくれんの。お前マジ歌舞伎町向いてない。ありがとうございます。終始そんな感じでとにかく「転ばせない意志」がすげー強い。のが今作のポケモンです。「七転び八起きで達成して得るものあるよね」マインド、isゼロ。「この道をまっすぐどうぞ、石ころはすべて取り払ってあのロードバイクとかにうってつけのちょっとベタつくフラットなタイプのアスファルトにしておきましたので、思う存分サイクリング楽しんでください」みたいな母性がすごい。

んでこれ、改悪って言おうと思ったら言えちゃうんだよね。こういうの求めてないユーザーたぶん結構な数いる。転ばせろ!!みたいな。どうしたの、甲子園出たいの?みたいなユーザーめっちゃいると思う。んでそういう人たちは御三家チョイス段階でリセマラしてて楽しそうだから置いとくけど。つまり何が言いたいかっていうと、ついに「ポケットモンスター」はユーザーの選別に取り掛かったのかなって思ったんですよね。「ポケットモンスターの本来の楽しみ方はこうなんだよ」ってそういうのをすごい感じるんですよね。取り払われた石たちの具体例を挙げると、

・要所要所で勝手に回復してくれる上、ポケセンの密度が高い。更にポケセンじゃない回復ポイントも多い

・「ひでんマシン」の存在を消し去り、「ひでんマシンを考慮したパーティ編成」をしなくてよくなった。あるいは「ひでんマシン要員」が要らなくなったので、思う存分好きなポケモンで固めたパーティが組めるようになった

・一回でも戦ったことがあるポケモンが相手だと、自分のポケモンの技選択画面で「効果なし」「効果あり」「いまひとつ」「効果抜群」の表示が出る

・「学習装置」が、ユーザーが所持してるだけで全ての手持ちポケモンに適応される

・レベルアップに必要な経験値が低め

・「ここでしか出ないポケモン」がレアなポケモンのみ。基本的なポケモンはどこに行ってもおる

ここらへんですかね。ちょっと親切すぎない?っていう印象です。手間暇とか記憶スタックとかがもうほんとに要らない仕様。「気力ゲー」でも「記憶ゲー」でもなくなったわけで、ポケットモンスターサンムーンはじゃあ何ゲーなのって、もう「楽しむためのゲーム」だし、そもそも従来のポケモンありきじゃないんですよ。過去作の互換性がないのも含めて。例えば、ポケモンといえばジム戦とバッヂでしょ、これすらない(代替システムはあるけど)。もはや「ポケモンが出てくるナンバリングされないタイプのゲーム」と言ってもいいかもしれない。これは、「楽しむためのゲーム」でしかない。過去作ファンへのサービスもしっかりしてるけどね。そしてその話もこれからします。

このゲーム、わたしの為にあるのでは?って思った要因の一つが「金銀のポケモンめっちゃ出てくる」ところ。これすげー斬新。RGBじゃなくて金銀ってところが斬新。わたし世代だと金銀からポケモン入った人結構多いと思うんだけど、金銀のポケモンてその後あんまり出てこなかったんですよね。RGBのは結構出てきてたけど。ゆえに「ウワーー!懐かしい!!そう!!レディバ!お前はレディバ!!知ってるぞ!!!久しぶり!!!」みたいなテンションの上がり方する。名前思い出せないけど顔も分かるしあれやろ5年2組のお前やろみたいなあの感じ。が、すごく楽しい。んでレディバは違うんだけど、例えば「ガラガラ」、あれ従来の見た目とも違うんだけどなんとタイプも違うんですよ。ガラガラだよ?岩だったか地面だったか忘れたけどそのへんやろ?って思ってたら、炎とゴーストなの。エーー!!!!!!そういうのがたくさん用意されてて、従来のポケモンのこと考えてたらほんとにダメなようにできてて、つまりサンムーンとして楽しんでよねっていうツンデレがすごくかわいい。

話がしっちゃかめっちゃかになってるって?わかってる。わかってるけど止められない!もうちょっと早めに1エントリ書いとけばこんなことには!!ウワー!!!次の話します!!!!

今作でもう一点注目すべきなのは、「ちゃんと2016年のポケモンだ」って思わされるところ。例えば、

・最初に主人公選ぶときに、髪色、肌の色まで選べる(人種への配慮)。更に「美容室」「ブティック」があり、髪型・髪色・服装・カラコンまで選べてアバターとしてきちんと作れるようになっている。ついでにパスポート的なものの写真を自分で撮り直せて、アングルやズームも調整できる

・今までの「ロケット団」的ないわゆる「悪の組織」が今回もいるけど、基本的に「強者により居場所のなくなった人たち」の集まりだという描写があり、「絶対悪」が存在しない

・「悪の組織」の対比として慈善事業的な組織があるんだけど、それも後から覆り、「絶対善」ではないことが判明する

・「毒親」と「その子供」がいて、子供が毒親から逃げ出したり、きちんと決別した暁には娘が自分の意志で身なりを変える描写がある(毒親の子供への強いメッセージ性を感じる)

・めっちゃ細かいことだが、ゴミ箱からアイテムが出ることがない。(教育上よくないからか…?)

・新システム「ポケモンリゾート」、パソコンに預けているポケモンが過ごす島というものがある(閉じ込めとくの可哀相だもんね)

・悪の組織の人たちの動きがラッパー(2016っぽさランキング1位)

などなど。

他にもたくさん書きたいことあったと思うけどもうこれ以上散らかすとお母さんに怒られるし、読者各位も疲れちゃうと思うし、わたしも疲れちゃったのでここら辺でおわり!どんどん勢いがなくなったけどおわり!推敲もしない!!アディオス!!みんなポケモンやろーぜ!!!以上です!!!!

乱暴なこの記事は3000字ちょいあります。

こんばんはタナカルイです。今日は真面目ぶって、少し先に予定している、初めてのわたしの自主企画イベントについて思うところを書いていけたらいいなと思ってiPhoneを手にしていますが与太話も多くなるかもしれない。話したいことがたくさんありすぎて、とっちらかってしまうかもしれない。それでも、この企画に込める思いを明文化しておきたい、しなければならない、と思って今フリック入力と戦っています。そして今のうちにアテンションを挟みますが、乱暴な物言いをします。独断と偏見と、音楽という概念、バンドマンへの最大限の敬意と愛を込めて。気に障る方も多いでしょう。それでも書かせてください、読んでください、何か思ってください。何か、してください。そう思いながら書きます。これはひとつのわたしの祈りの形であり、その企画もまたひとつの祈りです。


〓イベントの大枠: カッコイイツーマン
今回企画しているのは、とある実力派のバンドのツーマンイベントで、実力派と言ってもいろいろあるかなと思いますが今回はとくに「お客さんを楽しませる力があり、お客さんもそれをわかって連いてくるようなバンド」のことです。もちろん、カッコイイです。支持をすでに得て、これからどんどん大きくなっていく彼ら。でも、思惑としては彼らは「主役」ではない、というのが、とくに今回書きたいことです。

今回の企画では、2組の前に「オープニングアクト(以下OA)を用意していて、わたしにとってのメインアクトは実は、こちらのバンドです。わたしがライブハウスに通いながらどんどんどんどん強くなる思いがひとつ、それは「こんなにカッコイイバンドがたくさんいるのに、誰の目にも触れないなんて残念すぎる」いや「許せない」という気持ち。「誰の目にも触れない」なんて言い過ぎだと思われますでしょうか。事実です。お客さんが両の指に収まるくらいしかいなくて、その数人すらバンドマンで、他の出演者しか彼らを「目撃」していない、ということは、ザラにあります。彼らはバンドマンに聞かせたくて音楽をやっているのでしょうか、たぶん、違う。これは、そのバンドに力がないということでは全く以って無いと、ライブハウスに勤める者として断言します。すべてすべて、ライブハウスの責任です。どんなによいパフォーマンスをしても、「場」を、「お客さん」を用意するのはライブハウスの役割だとわたしは確信しています。どんなものを売っているのかわからないところには、お客さんは来ない。当たり前です。そしてそのマーケティングを、ライブハウスはもっともっともっともっとしなくてはならない。死ぬ気で。死ぬ気以下は怠慢だとすら思います。だって、「出てもらってる」んだから。「カッコイイから出て欲しい」と思って呼んでおいて、そのマーケティングを怠るなど本末転倒です。自宅に呼べ。
※今回はノルマ制度には触れずにおきます。

〓インディーズ、ライブハウスの現状
昔のことは、わかりません。少なくとも今、インディーズ業界はほとんど飽和状態と言っていいと見ていて感じます。クオリティの高いパフォーマンスをするバンドが多すぎるほどに存在し、そして、それを「発表する場」としてのライブハウスも腐ればいいのにと本気で思うくらいに多くあります。ゆえに、わたしが前述した「怠慢」は、当然の帰結です。だってみんなカッコイイもの。毎日死ぬ気でマーケティングなんてできない。ライブハウス側としてはそう。じゃあバンド側にとっては?ライブハウスのブッキングによる一晩は、たいてい5バンドで構成されています。自分たち以外の4バンドを、1組も聞いたことがない、ということが、実際に少なくない頻度で起こっているはずです。たとえ他の4バンドがめちゃくちゃカッコよくても、だってカッコイイバンドが多すぎるから、聞いたことがない。だから、例えば自分たちのお客さんに「この日はこういう人たちがいて、きっとこんな夜になるよ」って言えない。じゃあ誰が言うの?ってそりゃライブハウスが言うしかないじゃないですか、だって知ってて呼んでるんだから。

〓この段階での矛盾
「この日はこういう人たちがいて、きっとこんな夜になるよ」、わたしは先に、バンドが言うみたいに書きました。そして、それライブハウスが言わないとだめじゃんね、と言いました。でもここに矛盾がひとつあって、ライブハウスが「この日はこういう人たちがいて、きっとこんな夜になるよ」って言ったって誰にも届かなかったりするわけです。同じことをバンドが言う方が効果的だったりするわけです。それならバンドが言った方がいい、という話にもなりえますが、そういうことではない。ライブハウスが発言力をもっともっと持たなければ、持つように動かなければならない。一朝一夕にはいかないからこそ、今、今、まさにこの今なにか、しないといけない。そしてわたしにとっての「今なにか」こそ、長くなりましたが、今回の企画です。

〓立ち戻ってOAの話
ライブハウスに力がない(と敢えて書きます)今、代わりに力を持とうとしているのがきっと「イベンター」なのでしょう。「この人の企画なら、知らないバンドしかいないけど信頼してこの一晩を/このチケット代を預けられる」。そういう風に思ってもらうために、ライブハウスの代わりにお客さんとカッコイイバンドをつなぐために、イベンターさんたちはきっと、それこそ「死ぬ気で」動いている。そして、わたしにはまだその信頼がない。
だからこそ、第1回目のわたしの企画はツーマンです。甘えです。その2バンドの言葉には、動作には、力があります。信頼があります。その力を信頼をお借りしてはじめて、わたしはOAを務めてくれる1バンドを、より多くのお客さんにつなげることができる。わたしも死ぬ気で動きます、動いています、それでも、嫌な言い方をすれば「集客」の観点から見て、当日来てもらえるお客さん、わたしが「用意」できるお客さんの数は、2バンドに劣るでしょう。だからこそ、命を賭してでもこの2バンドの出演に漕ぎ着けました。現段階でのわたしの全力、わたしの本気です。

〓「発表する場」という表現
この段階は余談めの、バンドに対して思ってることなので、読み飛ばしていただいても大丈夫です。
二段落くらいまえにライブハウスを「発表する場」と表現しましたが、これはわざとです。前述したように「聞いたことがないバンド」と一晩を預かったバンドは、MCなどで他のバンドについて言及しないことも多い。5ステージが分離し、「一晩」ではなくなってしまっている、そんなことがままあります。自分たちのお客さんは自分たちのお客さんでしかなく、他のバンドのお客さんは他のバンドのお客さんでしかないような。これはライブハウスのシステム自体の問題も含まれていますが、鶏か卵か、「目当てのバンドだけ見に来て、終わったら帰る」というお客さんが現に存在するからかもしれません。しかし、前述したように、お客さんはバンドを信頼している。「次のバンド、カッコイイから一曲だけでも見てってね」と一言言うだけでどれほど影響できることか。思ってないことを言えとは全く思わないし、お世辞や馴れ合いを求めているわけでもない。ただ、「一晩」を「5バンド」で預かっている、というマインドがもう少しだけお客さんに届いたら、それがバンドの企画(つまりバンド同士の面識のある夜)以外でももう少しだけ届いたら、と、お客さんのひとりとして、思います。今回の2バンドにも、お願いしていることの1つです。

〓おわりに
論点がたくさんありすぎる1エントリになったので、段落ごとのタイトルをつけるという慣れないことをしまして、読みやすくなっていなかったり却って読みづらかったりするかもしれない。最後まで読んでいただいてありがとうございます。音楽へバンドへ最大限の敬意と愛をこめて。以上です。

書きたいことを書く前にフリック入力で長文を書く回その1

はじめまして、タナカルイです。タナカルイとは、毎日夕方になるとどこからともなく都内のライブハウスに現れ、音楽を食べ、満足するとツイッターランドへ帰っていくタイプのおばけのこと。このおばけは音楽が大好きで、しかしどんな音楽が好きなのかと聞かれては毎度毎度答えに窮しながら暮らしてきました。しかし最近得た答えがひとつ、「音楽という概念が好きです」。我ながら意味がわからないですが、それ以上聞き返されることもないので良しとしています。たぶん相当に頭と耳、それに心がイカれていらっしゃる、そんなおばけです。

そんなおばけがブログを始めてみました。拍手!実はこのブログは相当前に開設だけしてあったものです。ズイショさんという世にも恐ろしい怪物ブロガーさんがいらっしゃるのですが、彼の記事が好きすぎて全エントリの遡行を無事完遂、その旨を本人に伝えたところ「じゃあもう書くフェーズなんじゃね?」って、「じゃね?」は語尾が上がってるギャル男みたいな感じのあれなんですけどあのテンションで言われて、わたしは頭がよろしくないですから、「マジで?!せやな!それな!」と言いながらいそいそ空っぽのブログを開設したわけです。今日まで1エントリたりとも書かなかったのは、筆がというか気が進まなかった以上の理由はなく、今日書き始めたのは、筆も気も進んでいるからです。とはいえ書きたいこと、つまり音楽へのあふれてやまぬいやらしい愛を記述するには、いささかどころではなく自らの筆ないし右手親指と脳内のアウトプット回路へ不安があるもので、この記事と今後書くであろう数記事については筆慣らしです。つまり内容は無いです。ゼアイズナッシンアイキャンドゥフォーユー。これはチャットモンチーの何らかの歌の一部です。

この文章は現在入浴中のタナカルイの右手に握りしめられた、「握りしめ」っつったってそんなに力は入ってないですけど、右手に握りしめられしiPhone6Sのキーボードを右親指でフリック入力することによってたった今4:50ですがそのたった今書かれています。ブログを書く気にならなかった理由のひとつはPCがぶっこわれてしまっていて、10歳にしてブラインドタッチを習得せし黄金の両手の黄金の指が活かせないからだったのですが、そんなこと言っても気が進んじゃったもんは仕方がないから仕方なくフリック入力で妥協してこうやって一文字一文字を「ひ と も じ ひ と も じ」っつって書き進めている。わたしは少なくとも自らの書く文章、特に長文、それがiPhoneによって形成されているものである場合そのクオリティを自ら信頼できません。今も書きながら信頼できねーなと思っています。ご覧の通り改行もなく思ったことを思ったままだいたい1/300くらいのペースでアウトプットしたものの体裁自体そもそも読み物としてのクオリティに信頼を抱くことができないのは想像に難くないと思われますし、そして少し未来の話、現在4:55その少し未来にこれを投稿するさい、読み返しもせずにインターネットの海へ「ソーレッ!」つってほうり投げます。だからせめてPCで、キーボードで、あのサイズ感のモニターで書いたものなら少しは読みやすいとかそういう配慮もしながら書けようと思いますけれども、いかんせんその手段はいま採ることができず採ることのできないものについてクヨクヨ考えたりクヨクヨ書いたりしたって仕方ないじゃないですか。書いてるけど。5:00、今日の筆慣らしは以上です。